雨のち晴れ
こんばんは。Nanashunです。
天気予報を見ると、たまに昨日と今日の気温が同じであることがありますよね。その場合、同じような場所、同じような時間、同じような服装で出たら、普通は感じ方も同じようになるはずですよね。ところが、ごくたまに同じ気温、同じような場所、同じような時間、同じような服装で出ても、吹き抜けた風が冷たく感じる日があります。それはきっと、感情が同じじゃないからです。幸せな時はちょっと暖かく感じたり、逆に悲しい時はすごく冷たく感じたり。感情って見えないくせに、わかりやすいなと思います。そんな吹き抜けた風が冷たく感じた日のことを書いていきます。
さて、単刀直入に申し上げますと、昨日母方のおばあちゃんがこの世を去っていきました。最近、お母さんがおばあちゃん家に通うことは多かったので、何となく覚悟はいましたが、いざそれを目の当たりにすると今ですら実感が湧いてこないのが事実です。それもそのはず、自分は23年間生きてきて、身内の死を経験していないからです。もちろん、経験していたからと言って、悲しみが半分になるわけでもないのですが、それこそ吹き抜けた風に記憶の匂いがするくらいには、経験というのは大きなものがあります。おばあちゃんとの思い出を振り返ると、自分が印象的なのは昔飼っていたゴールデンレトリバー(名前はティアラ)との思い出です。自分が小学生の頃でしょうか、よくおばあちゃんの家に行くと、そこに大きくて、かわいいというより、かっこいいティアラとおばあちゃんがいつも迎えに来てくれていました。もちろん、一緒に遊んだことや散歩したことも覚えています。なぜこんな昔のことも鮮明に思い出せるかというと、自分は実家では犬を飼っていなかったこともあって、少し憧れがあったからですね。しかし、そんなティアラも自分が中学生になる頃にはこの世を去ってしまいました。あの時も同じような風が吹き抜けていた気がします。でも、当時の自分はまだ未熟で実感は湧かないどころか、こうして自分の感情を言語化できていなかったと思います。だから、大人になって経験する悲しみの方が大きいというのを、今回何となくの感覚で覚えていました。他にも、おばあちゃんとはなかなか会えないこともあり、よく電話していた記憶があります。特に印象に残っているのは、自分が大学生になってバイトで電話対応などを身につけていたこともあり、電話での言葉遣いや堅苦しさが抜けないときには、おばあちゃんから「なんか別人みたい」「立派になったね」と言われたことです。その時のおばあちゃんは確かに成長を喜んでいるのですが、それと同時に何だかおばあちゃんの知るかわいい自分が離れていくことに少し寂しい気持ちも抱いているようでした。こんな日常的なことも思い出せるのも、今では思い出ですね。
仕事を早めに切り上げ、父親とおばあちゃんの元へ向かいました。特段、必要以上に会話を交わすことはなく、自分はただ思いを窓の中から馳せていました。そんな姿に、父親はそっとしておいてくれました。おばちゃんの元へ着くと、そこには親戚がたくさんいました。ほとんどは自分が小さい時に会っていた人ばかりでしたので、大きくなった自分に親戚一同驚きでした。そんな姿を横目に、おばあちゃんの元へ。ドア風すら冷たく感じるその部屋は、覚悟を決めさせるものに近かったですが、どこか暖かい温もりもあったような気がしました。そして、棺に入ったおばあちゃんを見ました。見慣れた顔に、見慣れない現実に、涙が止まりませんでした。その涙を拭う間もなく、線香に手をやるも、視界がぼやけてなかなか火がつきませんでした。そんな時、従兄弟が煙の出ない線香だよ、と隣で優しく呟いてくれました。手を合わせて、お祈りをしました。伝えたかったことは3点。先ずは本当に今までありがとうという感謝の気持ちでした。父方のおばあちゃんに比べて、過ごした思い出が決して多いとは言えませんが、だからこそ一つ一つの思い出を鮮明に思い出すことができました。23年間、自分を遠くで、時に近くで、育ててくれたおばあちゃんには感謝の気持ちしかありません。ありがとう。次に、仕事のことを伝えました。入社して1年も経たないうちにこの世を去っていったおばあちゃんには、仕事の話のほとんどはできませんでした。特に、ブログでも書いていたMVPについては、仕事で唯一自慢できる所だったので、その話をしたかったなあと。悔しいですが、それこそ今度こそ1位になって報告したいですね。そして最後に彼女のことを伝えました。実は彼女は朝から悲しくてどうしようもない自分も、そばに支えてくれました。一昨日には、会えたら彼女の話をしよう、なんて意気込んでいたくらいですから、まさかその報告もできずにこのような形でお別れしてしまったことには、やっぱり辛い思いがあります。それでも、自分とは正反対のような太陽の彼女の存在に、きっとおばあちゃんも安心しているのだろうと思いました。たらればの話をしたらきりがないですが、もし会えるのであればおばあちゃんに紹介したかったくらいには、自分はやっぱり彼女のことが好きです。
以上がおばあちゃんと会話を交わした最後になります。正直、まだ実感が湧いていません。もしかたら、ぐっすり寝ているだけなんじゃないか、なんて思いたい気持ちでいっぱいです。それでも、冷たい風に現実を突きつけられ、最近なかった雨にも降られ、おばあちゃんと一時的なお別れをしました。ただ、今週はお通夜や葬儀などもあるので、またそこでしっかりお別れをしたいと思います。それにしても、初めて身内の死を経験したわけですが、なんだか後悔ばかりが残る形になってしまいました。仕事にしろ、彼女にしろ、もっと早いうちから話しておけば良かったという思いが後を経ちません。それでも、できる最大限でおばあちゃんに祈りを捧げることができたことは、少なからずおばあちゃんも幸せだっただろうと思います。実は祈りを捧げたあと、最近ずっと家を離れていたお母さんに会ったわけですが、その時が一番悲しみに包まれていたような気がして、涙が止まりませんでした。もし自分の親が、と思うとそれはもう想像を絶するものでした。それでも、お母さんは悲しみではなく、ありがとうと幸せだった、という前向きな言葉で自分に伝えてくれました。その時吹いた風は雨が降った後にも関わらず、どこか暖かくて、包み込むような優しさで溢れていたような気がします。その優しさに触れて、今日もまた自分は生きていく。もっと生きたかったおばあちゃんの分まで。もう後悔しないように、こうして伝えていくのです。
読んで頂き、ありがとうございました。
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